浅野拓磨が高校サッカー選手だった頃! 日本代表に登りつめたプレーヤーの過ごしたキャリアとは。

「タク、お前はトレセン(の選手)としての仕事をしてないぞ」と。この日、彼はダブルマークされていて、思うように動かせてもらえなかった。

元川悦子| Photo by Kenzaburo Matsuoka|シリーズ:僕らがサッカーボーイズだった頃3 日本代表への道

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◆ハングリー精神を表に出して高校総体でレギュラーを奪回◆

 ハングリー精神を表に出せるようになった彼は高校総体ではレギュラーを奪回。この大会はベスト16で敗退したが、夏休みに各地のフェスティバルに参加し、サンフレッチェ広島ユースにコテンパンに叩かれた経験を通して、Jリーグ基準に目覚めていった。

「(野津田)岳人のいるサンフレユースに0-7で負けたんです。それから監督は『サンフレ目線でやらんといかん』と口癖のように言い始めた。高校でやってる切り替えの速さだったり、泥臭いプレーも大事だけど、サイドチェンジのパス1本で崩して点を取れるJユースのレベルに上がらないといけないと感じたのは確かです。あそこで奮い立つことができたし、チーム一丸となったから、冬の高校選手権につながったのかな」と浅野は鮮烈だった高2の夏を思い返す。この年末の2011年度の選手権で快進撃を見せ、市立船橋との決勝戦で史上稀に見る好勝負を演じ、浅野自身が得点王に輝けたのも、壁にぶつかりながら這い上がってきたからだろう。

 この大活躍を機にプロから熱視線を送られるようになった浅野は2013年春、広島入り。佐藤寿人という12年連続2ケタゴールという前人未到の大記録を打ち立てた先輩FWの背中を見ながら着実にステップアップし、3年目の今季はハリルホジッチ監督率いる日本代表候補に名を連ねるところまで来た。

「僕のサッカー人生を考えてみると、少年時代は松尾と弟、四中工はタムショウ(田村翔太=福島ユナイテッド)、広島では岳人や寿人さんと、いつも身近にいいライバルがいました。そいつらに負けたくないと思うから人一倍頑張る。それが大事なんだと感じます。今は寿人さんと同じポジションでやれてること自体、幸せですけど、やっぱり負けたくないし、追いかけつつ自分のよさを出していけば、いつかポジションを奪える日が来る。そう信じています」と彼は語気を強めた。

浅野拓磨(あさの・たくま)
1994年11月10日、三重県生まれ。兄2人の影響で小学1年からサッカーを始める。小学生時代はぺルナサッカークラブ、中学生時代は八風中学校でプレー。中学時には県大会2連覇を達成。その後、四日市中央工業高校に進学。高校選手権には3年連続出場を果たした。高校卒業後は、サンフレッチェ広島に加入。2015年7月、東アジアカップ2015に出場する日本代表メンバーに初選出された。

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