ドリブルサッカーはどのように生まれたのか。「聖和学園」の起源【連載:第2回】

ドリブラーが集う宮城県の聖和学園。いまでこそ代名詞となったドリブルで魅せるサッカースタイルはどのように育まれたのだろうか。

小林健志| Photo by Takeshi Kobayashi|シリーズ:「聖和学園」

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チームの事務を務める松山翔太さんは一期生。男子サッカー部立ち上げの苦労を知っている Photo by Takeshi Kobayashi

技術を充分に発揮できないピッチで産声をあげたサッカー部

 一期生で、現在は男子サッカー部事務や聖和学園のスタッフや高校生が指導に当たるスクール「ATRATIVO」の指導・運営に当たっている松山翔太さんは当時を思い返してこう語る。

「男子サッカー部立ち上げ1年目は女子ソフトボール部(現在は薬師堂キャンパスで活動中)が活動していたので、使用していたグラウンドは半面でした」

 創部して間もないできたてのサッカー部は、一面半という面積のなかで練習をこなした。さらにピッチ状況はテクニシャンを育てる理想にはほど遠かった。

「必ず石拾いを30分やってから練習をしていましたが、元々生えていた雑草の根が残っていて、すぐに生えるので、それをみんなで剥がすのが大変でした。加見先生が自分の車を使ってグラウンド整備したりもしていましたが、他の部員の親が農業をやっていたこともあり、重機を持って来てグラウンドを整備したこともありました」

 整備されていないグラウンドに現れる石や雑草の根を撤去しながら、部活のはじまりは常にグラウンドをつくるところから行なければならなかったうえに、ボールタッチに影響を及ぼしたのが土質だった。

「フカフカで柔らかい土質だったので、ボールコントロールに苦労しました」

 土に足をとられ、ボールを丁寧に扱うことの難しいピッチ。いまでは全国よりドリブラーたちの集うサッカー部の誕生は、技術を充分に発揮できないグラウンドで産声をあげた。

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