ドリブルサッカーはどのように生まれたのか。「聖和学園」の起源【連載:第2回】

ドリブラーが集う宮城県の聖和学園。いまでこそ代名詞となったドリブルで魅せるサッカースタイルはどのように育まれたのだろうか。

小林健志| Photo by Takeshi Kobayashi|シリーズ:「聖和学園」

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聖和学園が重ねた野洲高校のスタイル

「全く先輩がいなくて、(加見監督は)どういう人かも分かりませんでした。ボールも無かったので、マイボール(自前のボール)を持ち寄って練習していましたね」

 それでも一期生はいまほど恵まれない環境のなか、加見監督の下で日々練習に励んだ。プレーしていた彼らも暗中模索。まだ見ぬ自校のサッカーにはっきりと手ごたえを得られずにいたのだ。この頃、華麗なドリブル、テクニックを武器としたサッカーを主体するチームに目立った活躍がなく目指すべきスタイルは曖昧なイメージだった。

「とにかく見本が無かったので、特に1年目は手探り状態でした。加見先生が80~90年代のワールドカップのビデオを見せてくれて、そこから崩しの部分を学びました。いわゆる『歩いてやるサッカー』が全盛だった頃のブラジルやアルゼンチンなど南米のチームをよく見ました」

 活動量が少なくても足下の技術で相手を崩して点を取る。そうした名選手のプレーでイメージを膨らませながら練習に取り組んだが、試行錯誤の連続だった。

「今とはポテンシャルが違いすぎます」と松山さんが当時を振り返るほど、当時の選手たちにとって全国大会出場などは遠い夢の話だった。しかし、そんな黎明期を支えた選手たちの目の前に現れたのが、野洲高校だった。

 当時の高校サッカー界に突如として現れた「セクシーフットボール」。一期生が卒業する直前の2006年1月。高校サッカー選手権で異色のドリブルサッカーを展開して、優勝を果たした野洲高校の存在が、聖和学園のプレースタイルが生まれる原形へと導いていく。

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