部活動を立ち上げる苦難。「聖和学園」の原点【連載:第3回/前篇】

ドリブラーが集う宮城県の聖和学園。いまでこそ代名詞となったドリブルで魅せるサッカースタイルはどのように育まれたのだろうか。

小林健志| Photo by 小林健志 Takeshi Kobayashi|シリーズ:「聖和学園」

スポンサーリンク
seiwa005

Photo by Takeshi Kobayashi

■一時期はロングボールを蹴ることも試した

「先輩がいないので、全部僕が与えないといけません。今の選手たちは先輩たちを見よう見まねでできますが、当時は大変でした」と振り返った。

 その時見せていた1986年メキシコワールドカップで一番面白かったというブラジル-フランス戦のビデオテープはすり切れてしまったという。見本となるものが無い、イメージが湧かない中、手探りの日々が続いた。

 結果が付いてこない中、「自分たちの好きなようにやって良いよ」と言った試合もあったという。ロングボールを蹴るなどしたがやはり結果は出ず、「何も残らなかっただろう」と選手を諭しながら、ドリブルサッカーに挑み続けた。

 そして2年目の2004年の秋に行われた宮城県新人大会で初めてベスト8に入り、少しずつ選手たちも自信をつけていった。そうした成果が出ると、中学校のサッカー部の目も変わってくる。部の立ち上げ当初のような言葉は2年目からはかけられなくなったという。

(後篇につづく)

[関連記事]
●ドリブラーはなぜ集うのか? 「聖和学園」が全国に残した記憶【連載:第1回】
●ドリブルサッカーはどのように生まれたのか。「聖和学園」の起源【連載:第2回】
●仙台育英、聖和学園は二回戦から登場!|第95回全国高校サッカー選手権宮城大会のトーナメント組合せ

1 2 3
PAGE TOP ↑