モデルとなった野洲。聖和スタイルのはじまり【連載:第3回/後篇】

ドリブラーが集う宮城県の聖和学園。いまでこそ代名詞となったドリブルで魅せるサッカースタイルはどのように育まれたのだろうか。

小林健志| Photo by 小林健志 Takeshi Kobayashi|シリーズ:「聖和学園」

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Photo by Takeshi Kobayashi

距離の狭さ、密集というコンセプトの誕生

 その頃になると聖和学園は宮城県内の強豪として他チームから認識されるようになった。

「思い切り引いてブロックを作るチームが出てきたのです」。ドリブルを主体に攻撃的に戦う聖和学園に勝とうと、自陣で守備を固めてカウンター攻撃を狙うチームが出てきたのだ。そうしたチームにどうやって勝つのか、ということが課題となっていた時期があったが、聖和学園はよりコンセプトを先鋭化することで対抗しようと試みた。

「ブロックを作るチームを打ち破るために、選手間の距離の狭さ、密集というコンセプトが生まれました」

 どんなに狭いスペースでもそれをドリブルでこじ開ける、狭いスペースに選手が密集する、現在の聖和学園のスタイルの骨格は、全国大会に行けそうで行けなかったこの時期に固まっていった。

 こうして着実にスタイルを構築し、宮城県内の強豪への道を歩んできた聖和学園だが、現在のような全国大会の常連の地位を築けたのは、加見監督にドリブルサッカーというコンセプトを植え付けた広山晴士氏の存在も大きかった。

 2年目からは広山氏が代表を務める神奈川県藤沢市のチームエスポルチ藤沢から聖和学園に選手が入るようになった。広山氏にドリブルやリフティングなど個人技を植え付けられた選手がチームの中核を成すようになったことで、聖和学園のドリブルサッカーは徐々に形になっていったのだ。広山氏と加見監督の出会いは、加見監督が聖和学園女子サッカー部のコーチをしていた時代にまでさかのぼる。

(第4回につづく)

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