【静学スタイルの真髄】才能ある選手は路地裏から突然、生まれる。元サッカー部監督・井田勝通の教え!

選手権で準優勝した半年後の昭和52年の8月だった。清水FCの南米遠征でモルンビー(サンパウロFCのホームスタジアム)へ行くことになって、俺はセルジオ越後に同行したんだ

井田勝通| Photo by 佐藤博之

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■才能ある選手は路地裏から突然、生まれる

静学

第93回高校サッカー選手権大会に出場時の井田勝通監督

(中略)
 選手権で準優勝した半年後の昭和52年の8月だった。
 清水FCの南米遠征でモルンビー(エスタジオ・ド・モルンビー=サンパウロの高級住宅街にあるサンパウロFCのホームスタジアム)へ行くことになって、俺はセルジオ越後に同行したんだ。

 その遠征で最初に行ったのは、サンパウロのど真ん中にある日本人街のリベルタージ。今でこそ大都会だけど、40年近く前のこのあたりは戦前の日本のような感じだった。古い建物が立ち並んでいて、「こんなところに日本人がいるのか」と正直、驚かされた。

 当時はブラジル移民の全盛期で、本当にたくさんの日本人がいた。日本の食材も米から味噌、醤油まで何でも揃っていて、生活には困らなかった。今は韓国人や中国人の方が圧倒的に多くなっているようだけど。

 そこにベースを置いて、サッカーを見れるだけ見ようと、サンパウロ州のプロクラブの施設を全部回った。モルンビーの収容規模は当時18万くらい。リオデジャネイロのマラカナン(エスタジオ・ド・マラカナン=CRフラメンゴのホームスタジアム)も約24万人だと言われていた。今は改修されてモルンビーもマラカナンも8万人くらいに縮小されているけど、当時はこれまで目の当たりにしたことがないほど、とてつもない巨大な規模だった。たとえばマラカナンのスタジアムは、スタンドとピッチの間にお堀(緩衝帯)があって、コーナーの外には全面芝のグラウンドが設置されるなど、信じがたい構造になっていた。

 それだけの大きな器が観客でギッシリ埋まるのは、衝撃であって、今もその記憶は残っている。その頃の日本は、高校選手権にお客さんがある程度入っていたけど、日本リーグ(JSL)はせいぜいスタンドに100〜200人程度が集まるだけだった。そういう環境に慣れていた自分が3〜4階建ての巨大なスタジアムが大勢の人で埋め尽くされて、試合中に観客が足を踏み鳴らすと建物が揺れたりするんだから、カルチャーショックを受けるのは当たり前だ。

 ブラジルの太鼓を叩きながらサンバを演奏して、みんながノリノリになって応援するのも驚きだ。物は盗まれるし、上から雨が降ってきたと思ったら、セルジオ越後から「バカ、これは小便だから頭を引っ込ませろ」と言われたりと、そんなアクシデントは日常茶飯事だった。

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