浅野拓磨が高校サッカー選手だった頃! 日本代表に登りつめたプレーヤーの過ごしたキャリアとは。

「タク、お前はトレセン(の選手)としての仕事をしてないぞ」と。この日、彼はダブルマークされていて、思うように動かせてもらえなかった。

元川悦子| Photo by Kenzaburo Matsuoka|シリーズ:僕らがサッカーボーイズだった頃3 日本代表への道

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「タク、お前はトレセン(の選手)としての仕事をしてないぞ」と。

 この日、彼はダブルマークされていて、思うように動かせてもらえなかった。が、内田監督(中学時代の指導者)はあえて高いレベルを求めて苦言を呈したのだ。「この一言でタクの顔つきが変わりました」と指揮官は言う。

 そして後半、浅野はついに値千金の同点弾を挙げる。途中出場した弟・雄也からのスルーパスに抜け出し、GKとの1対1を冷静に決めるという冒頭の浦和戦のような得意パターンからの劇的ゴール。傍らで試合を見ていた母・都姉子さんも飛び上がって喜んだ。

 勢いに乗った八風中は終了間際に逆転に成功する。その得点を決めたのが浅野のライバルでありコンビを形成してきた松尾(和樹=びわこ成蹊スポーツ大学)。「ボランチの松尾にはいいパスを出してもらうことが多かった。ホントに最高の信頼関係でした」と浅野自身も言い切る仲間の得点で、彼らはとうとう三重県の頂点に立ったのだ。

「試合後、雄也とタクが私のところに来て、表彰式でもらった金メダルをかけてくれました。2つのメダルを見ながら、本当に感無量でしたね」と母はしみじみ語っていた。

 内田監督にとっても2度目の三重県制覇ということで特別な思い出になったようだ。その後8チームが参加した東海大会は1回戦で敗退したが、浅野の存在感は際立っていた。内田監督は高いレベルのチームでプレーさせたいと考え、自身の母校である名門・四中工進学を進めた。が、強豪校へ行けば、遠征費やジャージ代など部活動にかかる費用は月10万円超にも上る。下に何人もの兄弟が控えている浅野家の3男としては、両親にそこまでの金銭的負担はかけられない。15歳なりに頭を悩ませた健気な少年は、地元の別の高校へ行く形で事態を収束させようとしていた。

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