部活動を立ち上げる苦難。「聖和学園」の原点【連載:第3回/前篇】
ドリブラーが集う宮城県の聖和学園。いまでこそ代名詞となったドリブルで魅せるサッカースタイルはどのように育まれたのだろうか。
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■一時期はロングボールを蹴ることも試した
「先輩がいないので、全部僕が与えないといけません。今の選手たちは先輩たちを見よう見まねでできますが、当時は大変でした」と振り返った。
その時見せていた1986年メキシコワールドカップで一番面白かったというブラジル-フランス戦のビデオテープはすり切れてしまったという。見本となるものが無い、イメージが湧かない中、手探りの日々が続いた。
結果が付いてこない中、「自分たちの好きなようにやって良いよ」と言った試合もあったという。ロングボールを蹴るなどしたがやはり結果は出ず、「何も残らなかっただろう」と選手を諭しながら、ドリブルサッカーに挑み続けた。
そして2年目の2004年の秋に行われた宮城県新人大会で初めてベスト8に入り、少しずつ選手たちも自信をつけていった。そうした成果が出ると、中学校のサッカー部の目も変わってくる。部の立ち上げ当初のような言葉は2年目からはかけられなくなったという。
(後篇につづく)
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