【連載 第1回 千葉高校サッカー史】流経柏・本田裕一郎監督 INTERVIEW/千葉県校躍進の理由は「監督」にあり。王国・静岡を目指した時代
流通経済大学付属柏高等学校で、多くのプロ選手を育ててきた本田裕一郎監督の言葉を紹介
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流経柏の本田裕一郎監督
――流経柏、市船以外のチームはどうですか?
「習志野、八千代、渋谷幕張、幕張総合、柏日体、千葉敬愛と、今はいいチームが本当にたくさんあります。県のベスト16~8のレベルはここ数年でグンと上がったと実感します。
ただ、全国に出られるのは市船、流経柏、習志野、八千代の4つくらい。それ以外のチームはトップ4の牙城をなかなか崩せていないのが実情ですね。それでも、各チームの監督たちが上を目指して切磋琢磨し続けるこの環境が、レベルアップのためには一番重要なんです。
かつて私が育った静岡がまさにそうでした。70~90年代にかけての静岡県勢には情熱的な指導者がズラリと揃っていました。藤枝東の名将・長池実先生、清水東を率いていた勝沢要先生、静岡学園でブラジル流のテクニックを追求した井田勝通監督、清水商(現清水桜が丘)の大滝雅良先生、東海大一(現東海大翔洋)の望月保次先生のように、個性的な指導者がしのぎを削っていたから、サッカー王国の地位を築けたんだと思います。
残念ながら、今の静岡県はそういう情熱家が少なくなってしまいましたが、千葉県にも個性的な指導者がまだ少なくない。市船の朝岡を見ていても、布イズムは全然変わっていないなと痛感させられます。その『監督力』こそ、千葉の強さを支えている最大の要因だと思います」
――目下、朝岡さん、榎本さんが40歳前後。指導者として円熟期を迎えていますが、それより若い世代に見どころのある監督さんは県内にいますか?
「30代より若い指導者で傑出した人はまだ見当たらないですね。最近は千葉の高校である程度、知名度を上げた監督の息子さんが高校サッカーの指導に当たっている例も見られますが、二世監督というのはなかなか難しいですね。私も布も失敗を繰り返しながら、泥臭くゼロからチームを作り上げ、選手たちを伸ばしてきた。そうやって自分から積極的にチャレンジしていくことが、チームを強豪へと導いていくための必須条件です。
今の若い指導者たちは、少しかっこよくなりすぎている嫌いがある。オシャレな練習は沢山知っていても、勝たせるための練習はなかなかできないですね。どうしたら勝たせられるかを情熱をも持って考えていってほしいと思います」
本田裕一郎(ほんだ・ゆういちろう)
1947年5月1日、静岡県生まれ。順天堂大学卒業後、千葉県市原市教育委員会を経て、75年に市原緑高校サッカー部監督に就任。その後、86年に習志野高校に転勤すると、95年にはインターハで初の全国制覇。2001年から流通経済大柏高校の監督を務め、07年には高円宮杯第18回全日本ユースサッカー選手権大会で全国優勝。翌年1月の第86回全国高校サッカー選手権大会、8月のインターハイも制し、見事3冠を達成した。これまでに宮澤ミシェル、広山望、福田健二、玉田圭司ら多くの個性あふれるプロ選手を育成している。
(連載 第2回に続く)