浅野拓磨が高校サッカー選手だった頃! 日本代表に登りつめたプレーヤーの過ごしたキャリアとは。

「タク、お前はトレセン(の選手)としての仕事をしてないぞ」と。この日、彼はダブルマークされていて、思うように動かせてもらえなかった。

元川悦子| Photo by Kenzaburo Matsuoka|シリーズ:僕らがサッカーボーイズだった頃3 日本代表への道

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◆先生が強く進めてくれなければ、今の自分もなかったと思います◆

「先生には『四中工へ行きたい気持ちはあるけど行けないです』と言いました。違う高校へ行ってもプロになれる自信はあったんで。そんな僕に先生が言ってくれたんです。『3年間は親に苦労をかけるかもしれないけど、高校卒業して社会人になって返していけばいいやないか』と。確かにホンマやなと思えました。先生が強く進めてくれなければ、今の自分もなかったと思います」(浅野)

 内田監督は本人を説得すると同時に、両親にも再三にわたって電話で考えを伝えた。

「タクには県外からの誘いがありました。それだけ才能がある子をトップクラスの学校に行かせないのはもったいない。強豪校へ行けば全国大会やフェスティバルなどでプロから見てもらえるチャンスも増える。そういうことをご両親にお話しさせてもらいました」

 最終的に家族の了承を得ることができ、浅野は2010年春に四中工へ進学。自宅から自転車で20分ほどかけて通う日々が始まった。

 四中工といえば、98年フランスワールドカップ日本代表の中西永輔、2006年ドイツワールドカップ日本代表の坪井慶介(湘南)らを輩出し、高校選手権優勝経験もある伝統校。浅野は樋口士郎監督に能力を認められ、1年からスーパーサブで使われた。2年の頭には先発をつかんだが、高校総体予選が始まった頃から突如、外されるようになる。監督からは何の説明もなく、思い悩む日々……。本人も初めての大きな挫折を味わった。

「監督はどこか満足してた自分を戒めようとしたんでしょうね。だけど、どこを修正しろとか全然言わないんで、ホントに辛かった。そんなとき、自分を励ましてくれたのがお母さんでした。『タクが出やんだで、勝てやんだな(タクが出なかったから勝てなかった)』と言ってくれるだけで心のどこかがホッとした。家族も応援してくれてるから、次、頑張ろうと思えたんです」と浅野は前向な気持ちを失わなかったという。

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